アイの罠
抱き合うのが嫌なんじゃないんだ。
敷布から脱け出し、開けた障子枠に背を預けて、一護は押し殺した重い息を吐き出した。
抱え込んだ左膝に顎を預けて、割れた夜着から覗ける脹ら脛の内側に一つ、白み始めた月影に蒼い痕跡を見付けて憂鬱になる。探せば同じような痕が幾らでも見付かるだろう。脹ら脛を吸い上げられた記憶はないが、それも又珍しい事ではない。行為を知って暫くは何が何だかわからないまま始まって終わり、記憶なんて断片的で不明瞭なものばかりだった。それなりに覚えていられるようになったのは、少し前からで。
眠る冬獅郎から庭へと視線を転じて、一護はこの庭がいつもちゃんと手入れがされている理由を思い出す。
まだ肌を合わせない頃、ここから二人温かいお茶を飲みながら、隊士が清掃時に庭の手入れもしてくれているのだと教えられた。十番隊の隊士は皆冬獅郎が好きなんだなと感心すれば、浮気の心配ならするだけ無駄だとからかわれたのだ。
ひょっとすると、あれは照れ隠しだったのかもしれない。心配なんかしてないと言い返すより、照れるなよと笑ってやれば冬獅郎は何と返しただろう。
幾ら考えてみても、行為の最中の、余所事を考えてる余裕があるのかと見下ろす恐いような眼差ししか思い出せない。その事に一護の頬に影が差す。
嫌なんじゃないんだ、でも。
世界を隔てれば頻繁に会うことは難しい、そんな中で何とか会う時間を作って、それは確かに嬉しいのだが、会えば事に及んでばかりというのはどうなんだろう。それは抱き合った事のある恋人なら普通の事なんだろうか。
冬獅郎しか知らないその事が、何時だって一護に判断を迷わせる。踏んだ場数がゼロなら経験値だって全てがゼロ、何もかも基準は彼に教えられている。
知りたいのは一般論ではないけれど、抱き合う以前の穏やかなだけの時間を望めば冬獅郎はどう思うのだろう。
子供だと呆れるのだろうか。嫌われたくは、ないのだけれど。
宵の口、約束も事前連絡もなく現れた一護を、冬獅郎は無論快く招き入れた。拒む理由も必要もない、一護の足が畳を踏むよりも早く引き込みたがる手を組んで堪えた冬獅郎は、急くばかりの自分に半ば呆れた。本能が至上でもないだろうに、まるで発情期の動物が如く一護を目にしただけで欲情するのはどうかしている。少し前から、体ばかり交える時間に一護が戸惑っているのを感じ理解していて尚止まるでもなくこの有り様、これでは密かに愛想を尽かされていたとしても無理はない。
「冬獅郎」
名を呼ばれて落としていた視線を上げれば、一護が一歩を踏み出すところだった。燭台の明かりに白い足袋、皺の作り出す影が白く黒い。
今夜ばかりは我慢出来ないだろうか。目の前に一護がいる以上強いられる我慢が相当なものであっても、期待と望みを募らせていたわけではないのだから、会えたことだけを喜んでただ側にいられないだろうか。
近付いて来る一護の表情に色めいたものがないのは簡単に見て取れるから、冬獅郎は今夜こそ我慢と自制を決める。ただ肉欲を満たしたいんじゃない、今更であってもそう思うのは建前ではないから。
「一護」
茶でも入れようかと畳に着いた冬獅郎の手は、傍らに膝を着き預けられた一護の上体とそれを受け止めて傾ぐ自身の上半身を支えるために、抜いたばかりの力を込め直すことになった。額に触れるのは鎖骨だろうか、僅かな身動ぎも叶わないほど深く抱き込まれて息さえ詰まる。
「一護、どうし
?」
「こういうのは、もう駄目か?」
上げられない頭の上、落とし込むような響きの重さに冬獅郎は耳を疑う。理解が追い付かない、何を指しているのか何を言いたいのか、まるで聞いたことのない単語を耳にしたような違和感。
「お前とするのが嫌とか、そういうことじゃなくて」
いつもより速い口調が言葉を挟むのを躊躇わせ、抱き竦める腕の強さが無言を強いる。
「だから……」
なぁ、言わなくてもわかってくれっていうのは、勝手過ぎるか?
一護の腕が動くなと言っているようで抱き返すこともできない。
「くっついてるだけってのは、やっぱり……駄目?」
「駄目じゃねぇよ」
「……ぇ?」
予想もしていなかった、そんな反応に少しばかり落ち込むが、一護のことだから伝えることに必死になってこちらの反応まで考えていなかったのだろうと、冬獅郎は半ば無理矢理に自分を納得させる。緩んだ腕の力に、漸く幾らか自由を取り戻せる。少し迷って、一護の背中に手の平を添えた。
「駄目じゃねぇよ、当たり前だろ」
「本当、か?」
「悪かったな、ガツガツしちまって」
二度告げても疑われる程かと思うとさすがに気恥ずかしさを覚えて、冬獅郎はぽんぽんと一護の背をなるべく何でもない風に叩く。
「あの、あのな? お前とするのが嫌なんじゃないんだぞ、本当に!」
「あぁ」
そこまで念を押すということは、どちらかと言えばしたい、という解釈でいいのだろう。冬獅郎としては一護のその反応は上出来だ。
「わかってる。悪かった」
浮き上がり離れた一護の肩にこめかみを擦り寄せる。一心不乱に熱を注ぐのとはまた違った充足感、四肢の隅々まで浸る幸福感は十分に冬獅郎を満たしていた。
「お前が一緒にいてくれるなら、究極的にはそれだけで構わないんだよ」
「……俺だってそうだよ」
好きなんだから当たり前だろ、そう小さく囁かれて、好きだなんてそんな当然の気持ちを伝えることさえしていなかったと思い至る。何ということだ。
「好きだ、一護」
キスがしたいと思う。側にいられるだけでいいと言ったばかりでそれはないだろうと当然に自粛するけれど。
「……良かった」
心底安堵したという響きが奇妙で首を傾げる冬獅郎の耳に、カチャカチャと覚えのない小さな音が届く。完全に緩んでいる一護の腕から抜け出してその手元を覗き込めば、ちょうど握りが手に収まるような大きさの機械を片付けているところで。現世の機械類に興味がある死神なら、それが所謂スタンガンと言われる防犯にも犯罪にも使われる機械だとわかったかもしれない。
「それは?」
「えっと……ま、いいか」
使わずに済んだんだし。
「ぁん?」
「これ、夜一さんに頼んで探してもらったんだけど」
怪しげな機械と四楓院夜一の名に、冬獅郎は嫌な予感しか覚えない。彼女の背後にはまず間違いなく元技術開発局初代局長の浦原がいるに違いない。心なしか頬を引きつらせた冬獅郎に気付いているのかいないのか、一護は肩を竦めて続ける。
「もし冬獅郎がくっついてるだけじゃ駄目って言ったら、コレ使おうと思ってたんだ」
「使う?」
「あぁ。霊体に当ててバチッ、てやると……」
不能になる。
「ふっ……!?」
「一時的だけど」
動揺する冬獅郎に、一護は少しだけすまなそうに首を竦めて笑う。しかし一時的とはいえ不能にさせられるところだったと聞くと、冬獅郎の心中は穏やかではない。
「お前な……!」
「悪ぃ。けど、それで話聞いてもらえるんならって」
「自業自得ってことか……これは?」
日番谷隊長、とだけ記された自分宛らしい封筒が覗いているのに気付いて引き寄せる。
「あぁ
コレ、使ったら冬獅郎に渡すようにって夜一さんが」
「四楓院が?」
使うはめになる前に、ではなく使った後でとはどういうことなのか。やっぱり嫌な予感しかしないが興味が勝って紙を開く。
『日番谷隊長、おぬしがこの手紙を読んでいるということは、おぬしが下劣極まりない最低の男だったということが証明されたのだろう』
夜一の高笑いが見えるようで、紙の両端に皺が、そこを握る冬獅郎の手に力が入る。
『つまらんことで一護を悩ませるからじゃ。存分に反省するがいい
それと』
「?」
「冬獅郎?」
『一護に一時的だと言ったのは嘘じゃ。一生不能に苦しめ』
真っ黒な墨でくっきりと書き込まれた最後の一行に見誤りようのない本気の怒りが透けて、音がしないのが不思議な程の速さで血の気が退くのが冬獅郎には自覚できた。関節という関節が僅かな身動ぎにすら盛大に軋む。ギシギシと重苦しい幻聴を聞きながら、どうにか顔を上げた先で一護があどけなく微笑う。
抱き締めたくなるが、その手に握られている物が恐ろし過ぎる。それを処分させてくれと頼み込む冬獅郎の必死さに、何故そこまでと首を傾げながらも一護は快諾して、冬獅郎の手にそれを渡した。
罠をはるいい子な一護、が宿題で、罠は仕込んでたけどいい子だから使わない一護、に拡大解釈しちゃいました。
本当に罠を仕掛けていたのは夜一というしょぼいオチですすみません。
(c)Sakusi