暗闇だと思えたけれど

(月詠:影月 様より)




肺が潰れそうになるほど走るなんて初めてかも知れない。
流魂街にいる時だってこんな必死になったことなんてなかった。
それは心のどこかで楽になることを望んでいたのかも知れないし、走るよりは隠れることの方が多かったからかも知れない。
護廷での暮らしは豊かすぎて、特にあの子が来てからは楽しくて過去のことはどこか朦朧としている。
悪いこととは思わないけれど、良いことでもないのは確か。
例え忘れる生き物なのだとしても、譲れないものがあるのも確かなのだ。
   隊長!」
「…お前はもう少し静かに入って来れないのか」
「申し訳ありません!ですが至急修練場までお越し頂きたいのです!一護が、」
震える声で紡がれた掻き消えそうな名前に、白を羽織った肩が揺れる。
舌に乗せれば自然と甘く響くその名は、彼にとって掌中の珠ともいうべき尊い存在だ。
動かないはずはないと、確信に心は逸る。

   …構うな。放っておけ」

「…隊、長、?」
信じられない言葉に眼を見開く。
頭が瞬時に事態を把握してはくれない。
珠玉の存在が涙を零す時、不安に心を揺らす時、ありとあらゆる場面で彼は彼女を護って来た。
護廷でも指折りの霊圧を誇る彼女が弱いとは決して思わないが、壮絶な過去が過去だけにどうしても不安定な面が残されてしまう。
霊子さえ狂わせるほどの暴走を、目の前の男が知らないはずはないのに。
「俺達はあいつを庇い過ぎてる。護廷にいる時でさえこんな調子じゃ、いつ任務に支障を来たすか判らねぇ」
「何、ですかそれっ」
「庇い立ては無用だ、松本。ありのままを見守れ」
「だから何ですかって訊いてるんです!庇い立て!?上等じゃないですか、あの子にあんな…あんな顔させるぐらいなら、!」
真っ青な顔で怯える姿を知っている。
触れようと伸びて来る指先に慄いて、自身を危うくさせてしまうほどの霊力の奔流を。
「支障があるならあたしが一緒に行きますよ!そんなことで、そんなことで…!」
毀れてしまう姿をただ見ていろというのか。
「松本!」
「誰に何を言われたか知りませんが、全部が全部あの子のためになるとは思えません」
「忘れるなよ、松本。あいつは、黒崎一護は十番隊の三席だ。お前に次ぐ立場にある。そんなのが副隊長同伴で任務にあたってみろ」
顔が潰されるのは、立場を追われるのはどちらだ。
実力だけがモノをいう世界、そういう組織の中で彼らは生きている。
最年少で隊長という責任ある地位に就いた冬獅郎も、女性ながら副隊長を務める乱菊も、だからこそ今この場所にいるのだ。
第三者から見る危機的状況でもない限り、霊圧の暴走など許されない。
「ですがっ、」
「あまり一護を、甘くみるなよ松本」
空気を震わせる霊力の流れに肌が粟立つ。
狂ったように暴れ回るいつぞやのそれではない、すべてを覆い隠すような圧倒的な、黒。

「あいつは格下にやられるような、お淑やかな女じゃあない」

護るべきもの護る、それが彼女の本質だ。
無意識に恐怖を抱く己を最も歯痒く思っているのは、他でもない一護自身。
強い霊圧を誇ろうと、斬魄刀を有そうと、それを振るう自分自身が恐れ戦いているようでは意味がないと。
無二の斬魄刀を抱き締め頬を濡らす時さえあった。
『―――斬月っ』
強い主を望む斬魄刀はけれど、王である彼女を責めはしなかっただろう。
鮮やかな血を未だ流し続ける傷に、刃を突きつけるような真似は。
長身の偉丈夫は、殊更あの少女を大切にしているから。
   …『斬月』!」
常以上の言霊の強さでもってその名を呼ぶのなら、それは長く長く彼女を捕らえていた呪縛から抜け出す覚悟を決めたということ。
願い続けて、叶うことは難しいだろうと思われたもの。


 
卍解、と伸び広がる高らかな声に、誰もが息を呑んだ。
圧倒的な霊圧、だがこれは暴走とは明らかに懸け離れたもの。
溢れ出すだけでそれを暴走というのなら、漆黒の色さえ帯びた高密度の霊子が集まっていく光景をどう表現しろというのか。
眼を奪う茜色の髪と変質した死覇装が翻る。
尸魂界に二振りしか確認されていない常時開放型の斬魄刀、その内のひとつが彼女の持つ斬月。
残るは十一番隊隊長の斬魄刀のみとなるが、彼の場合には本質そのものである名前すら詠唱されていないという異例の状態。
実質的には、かの漆黒の刀身のみが解放されているとみて良いだろう。
彼女は十二分に席官としての地位に相応しい。
遠くない未来、それでは立場の方が不相応だという声もあがって来るに違いなかった。
   …一護」
色彩を飛ばした瞳が、様子を見に来た冬獅郎を射抜く。
霊力はどうにかなっても心の問題ばかりは少しだけ時間が足りなかったらしい。
煙る橙色の帳の向こう側で、痛みを堪える瞳とぶつかる。
「………よく、頑張ったな。もう良いぞ」
「とう、」
「お疲れさん。これだけ頑張ったんだ、もう誰にも文句は言わせねーよ」
握り締めた指先をゆっくりと解いてやり、膝から崩れ落ちていく華奢な肢体を抱き止める。
「…?とうしろう、手、」
血が出てる。
触れ合わせた指先とは逆の、一護の身体を支えるように添えられた手のひらからはポツリポツリと赤い雨粒が滴り落ちた。
斬魄刀は持っているが、彼女自身に怪我はない。
疲労したのは精神的なものであり、肉体的に害を与えるものは衝撃波に近いものとなった霊圧によって吹き飛ばされているのだから。
「ああ、爪で引っかきでもしたか」
「なんで…」
嘘だ。
引っ掻いた程度ならこんな出血量になるはずがない。
手のひらに爪の食い込んだような跡が残るわけがない。
降り止む気配のない赤い雫を、その握り潰してしまった皮膚と共に見つめる。
「とうしろう。冬獅郎、冬獅郎とうしろう!」
「ああ、だから何ともない。鬼道で治せばすぐだから落ち着けよ」
記憶に張り付く赤い惨劇を思い出してしまったのか、酷く興奮した面持ちで、けれど声帯を傷付けられた獣のように掠れた声を響かせる。
「落ち着けよ。もう何も、させやしない」

例え誰だろうと、同じことを繰り返させるものか。


 
END


 



 



言い訳。

色々と試されている様子の第三席(判り難いわい)。
我慢を覚えた(覚えたか?)隊長を書きたかったのですがすみません見事に外しました。
暗い話しか書けずに申し訳ございません!!








影月さんより相互リンクの記念に賜りましたっ!!
同期設定です、好きです! 同じことばっかり言ってすみません……
涼しい顔して、そのくせ一皮向いたらいっぱいいっぱいな冬獅郎……男前です!
有難う御座いました!