曖昧な二人 after that

(Angelica:佳月リュウ 様より)




 今、この季節は年間を通して一番過ごしやすい。
 冷房も暖房も必要の無い、空気を一番美味しく味わえる季節。
 リビングの窓を全て開け放て、太陽の光ともどもダイレクトに外気を取り込む。遊子が窓辺に飾った鉢植えのゼラニウムに水遣りをするのを、一護はぼんやりと眺めていた。
「あ」
「どうかした?お兄ちゃん」
 遊子は何かまずかっただろうかと、傾けていた如雨露を水平に戻した。
「え…あ。いや、なんでもない」
 妙に慌てて首を振る一護に、変なお兄ちゃんと笑いながら水遣りを再開しようとした時に、ふわりと花の香りに誘われた来訪者に気が付いた。
「わぁ。揚羽蝶。きれーい」
 ひらりひらりと花びらに降り立つカラフルな舞姫。ゼラニウムの蜜を楽しみ、無音の羽ばたきでまた去って行く。
「夕飯まで部屋にいるから」
 一護は逃げるようにリビングを後にした。
 多分、遊子は変に思っただろうが、取り繕う余裕は無かった。
 部屋に入ってドアを閉めて鍵までかける。
 情けないというより恥ずかしい。
 人とは恋ひとつ知るだけで、こんなにも変わってしまうものなのだろうか。
 彼からの便りはいつも蝶が運ぶ。ただし、人の目には映らない、あちらの世界の蝶だ。
 見た目にも色彩豊かとはとても言い難く、一見して揚羽蝶とは別ものだと分かってるはずなのに、つい動揺してしまった。
「はぁ。俺、ダメダメじゃん」
 ドアを背もたれに、ずるりとだらしなく寄りかかる。

「何が駄目なんだ?」

「と、とと冬獅郎!?なんで!?」
 彼が予告なしに現れるのは珍しい。それに、先週会った時、しばらく忙しくて会いに行けないかも知れないと言っていた筈だ。
「誰かさんの書類処理速度があまりにも遅くてな。上まで仕事が上がってこねぇんだ」
 誰かさんとは言うまでも無く冬獅郎の有能な副官の事だ。彼女はサボりはするが消して仕事が出来ない人物ではない。放って置いたら仕事ばかりして恋人にも会いに行かないような甲斐性なしに冬獅郎をせぬよう、図ってくれたのだろう。その辺の采配は絶妙だ。サボりの達人は伊達ではない。
「突然来たらまずかったか?」
「いや!そんなことねーよ!」
「そうか。よかった」
 彼が微笑むと、一気に熱に浮かされる。
 ほんの些細な一挙手一投足に、一人翻弄され情けないくらい余裕が無い。
「とりあえず座れよ。あ!茶!遊子に頼んでくるっ」
 冬獅郎をベッドに座らせ―――この部屋には他に腰を掛けられるものが無い―――自分は落ち着き無く狭い部屋の中でおたおたする。
「そんな事いいから。お前も座ったらどうだ?」
 対照的に冬獅郎は落ち着き払っていて、呆れたように一護に苦笑する。
 一護は恥ずかしいやら情けないやら、冬獅郎よりもかなりある上背を縮みこませてちょこんと冬獅郎の横に座る。
「いきなり取って食ったりしねーから、んな緊張するな」
「っあ…いや、その…そういうつもりじゃ」
 顔の温度を上げて取り繕えば、かえって図星であったように見えるじゃないか。本当に、ただ冬獅郎が行き成りやってきて、それも会えなくて寂しいなとか思っていたタイミングで、そもそも付き合い出して日も大いに浅く、どう接していいのか分からずに戸惑っていただけであって…断じて疚しい事を想像していた訳ではない。
 ……………全然、全く、これっぽっちも、とは言わないが。
「そうか?期待されていないのもそれはそれで寂しいんだが」
 うわ。この顔は反則だ。
 二人とも座った大勢ならば勿論一護の方が目線が上なわけであって、冬獅郎は彼を見上げる形になるのだが、上目遣いという男からしてみれば屈辱的で格好のつかないはずのポーズが、冬獅郎がすれば何故か男らしく挑発的な捕食者の目になる。
 捕まる―――
 一護は彼の目を見ていられなくなって、壁に視線を逸らす。
 空気で冬獅郎が笑ったのが分かった。情けない。見た目では冬獅郎の方が幼いのに、中身は正反対だ。まるで余裕のない一護は、冬獅郎の目にどのように映っているのだろうか。呆れられていないだろうか…。
 経験乏しい一護に、この空間は耐え難いほどの緊張をもたらす。だが、それ以上に、冬獅郎に不快に思われたくないという気持ちがあったし、自分だって折角の彼との時間を大切にしたい。
 女子中学生でもあるまいし、このくらいでドギマギしてどうするんだよ俺!てか、今時、小学生でももっとマセてる奴いるって!
 自分自身に少々的外れな激を飛ばし、気合を入れる。
 タイミングを見計らったように、冬獅郎の手が一護に伸びる。視界の端にそれを捕らえた一護は、それによって奮い立たせられた。
 よし!俺も男だ。腹くくるぜ!!
 意を決し、逸らした視線を首ごと冬獅郎へ戻した。

 ガチッ!!

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 声にならない声が両者から漏れる。
 痛い。そりゃもう半端なく痛い。上顎と上唇がじんじんする。
 なんて間の悪い。振り返ったタイミングに、丁度冬獅郎も彼との距離を縮めていて、二人の歯と歯が容赦なくぶつかってしまった。
 数十秒、二人して悶えた後は、なんとも後味の悪い空気が室内に充満する。
「え…えっと。ごめん」
「いや。俺の方こそ」
 重い。重すぎる。
 折角二人きりで過ごせる貴重な時間だというのに。
「あ―――。すまない。時間切れだ」
「は?」
「もう、戻らないとなんねー」
 冬獅郎は本当に貴重な時間を割いてここまで来てくれたのだろう。益々一護は申し訳ない気持ちを膨らませる。
「そんな顔するな。また、その内会いに来る。ああ。待てないってんなら、一護が来てくれても構わないぜ」
 あ。この顔も好きだなと一護は思う。彼に似つかわしくないけど、とてもよく似合う挑発的な大人の顔。
「行く!必ず!」
 蝶が舞い、あちらとこちらを繋ぐ扉が開かれる。
 最後に見せた彼の顔が一護の即答を利いて幸せそうに笑んでくれたので、何がなんでも会いに行かなければと一護を決心させた。

 たった一人の人物との出会いが、自分をここまで変えさせることの戸惑いは大きい。
 大きいけれど、戸惑いばかりが心を占めるわけではない。

「あ…つーか…」
 落ち着きを取り戻した一護は先ほどの出来事をよくよく思い出して、漸く肝心な事に気が付いた。
「アレって、ファーストキス、だよな…」

 また暫く、使いものにならなくなった恋の虜が一人。



***



 十番隊の執務室。執務席の椅子に鎮座した冬獅郎は、深く深く息をついた。
 漸く気が抜けたといった様子。
「ったく。あんな顔しやがって。思わずがっついちまったじゃねーか」

 ここにも、恋に踊らされる幸せ者が一人。



END.








リュウさんより相互リンクの記念に頂きました。
何がいいですか、とリクエストを聞いて下さったので、遠慮もせずに完結していた話の続きを……
自分は幸せだなと思います、本気で!
この繊細な感情の揺れを丁寧に書かれる文章力、心底憧れます。
リュウさん、ありがとうございました!